再び獣害について考察してみた
田舎に移住したばかりの私が、せっかくの広い庭と肥えた腐葉土を活用するため人生初の畑(家庭菜園レベル)にチャレンジしているのですが、11月5日のブログで獣害に遭ったことを報告するとともに、獣害について自分なりに知って、考えるという記事を書きました。
そしてまたその1週間後、獣害に遭ったのたです…
そこで、今回も更に獣害について知り、考えるという事をしてみました。
と思っている人たちにも読んで欲しいです。
実は他人ごとじゃないんじゃないかと、思ってきたんで。
獣害について考える時の被害者視点
何かしら事件というと、被害者と加害者がいると思うのですが。
獣害において、人間視点でいうと被害者は人間の方ですよね。私も人間の端くれなんで、ひとまず人間=被害者として考えてみたいと思います。
特に、田舎で農業を生業としている人、あるいは、家族の分だけしか作っていないけど、自ら育てた農作物に頼る生活を送っている人が直接的な被害者でしょう。
そんな視点から獣害について論じられている代表格が、東洋経済の記事『田舎暮らしを夢見る人が知らない獣害のヤバさ』などを多数書かれている田中淳夫さんという森林ジャーナリストの方。
獣害という記事を検索したら上位に来るのがこの方による記事でした。
獣害・日本
自分が獣害になんて遭わなければ、普通に「ふ~ん」と読み終えた記事だったろうなぁ、というのが第一印象。
だが、今となっては納得半分、疑問半分、だった。
一部抜粋しながら感想・考察などを述べていきます。
檻の中の日本人
高さ2メートルぐらいはある金網が延々と延び、田畑などが柵で囲まれているのだが、まるで監獄のように見える。(中略)農作業は檻の中で行うのである。
そう、確かに、那須界隈にも多数の「檻」を見かける。限界集落ではないが、獣害が深刻なのだろう。行政が農家さんを支援して設置されたもののよう。
こんな喩えは被害者の方々から反感を買うかもしれないが、
都会のオフィスビルという檻に閉じ込められた社畜たちと重なってしまった。
どんな職業であっても、常に何かに怯えながら暮らしていくことしかできんのか、こんなに文明の利器に頼って反映してきた人類であっても…
結局は、
サラリーマンやりながら人という害獣と景気に怯えるか、
農業やりながら野生の獣と天候に怯えるか、
その二択の生き方しか無いんだろうか…
恐怖のサルギャング
加えて凶暴なイノシシやクマ、サルの出現は、身の危険を感じさせる。最近は昼間でも出没するから、田畑を訪れたときに鉢合わせする心配もあるのだ。
これはよくわかる。
イノシシはお隣さんの庭に、サルは自分の庭に出現した経験あり。
熊注意については、そこらじゅうに看板が立っているし、クマ目撃情報があると市町から発表されるので時折チェックするようにしている。
特にサルの群れに関しては、運転中に何度も出くわしている。太々しくも、道路のど真ん中でくつろいでいたり、堂々と横断していたり。
シカやイノシシと違い、サルは人間に怯えない。私の場合は運転中に出くわすことが多いのだが、確かにその辺りに畑など作業場を設けている人は、生身の時に出くわす可能性だってあるだよね。そりゃ怖い!
私はいつも慌てて車の窓を閉めるんだが、うっかり車を止めてしまうと襲って来やしないかとヒヤヒヤもんである。
余談だが、ブラジルに出張した際に「夜、赤信号で止まるとギャングに襲われるから絶対に停まらず突っ切る!」という経験をさせてもらったことがある。
サルギャングを見てそんな日々を思い出してしまいました。
やっぱりサルと人間って近いのね?
人間視点すぎる記事…現実は現実ではあるけれど。
それが農業であったりする。食べるものをつくって金銭的に助かるだけでなく、実は生きがいとして精神的にも田舎の暮らしを支えているのだ。(中略)
結果的に自ら集落を捨てることになる。仕事を奪われ、生きがいを失い、身に危険を感じては、いくら自らの故郷であっても住めない。
終始、被害者が如何に困っているかを述べながら、最後にこのように断じてこの記事は締めくくられている。
確かに、そうやって故郷を追われる被害者はかわいそう。
害獣たちを増やしたのは自分達ではなく、手の及ばない範囲で起きた事態だから。
その方々にとって悪いのは獣たちの方だろう。
でもさ…
肝心の、
何故獣が増えたのか?
については、ノータッチなんだよね。
そこ押さえないと、この問題は解決しないのでは…だって、犯人捕まえて損害賠償請求したって、永遠に支払われないでしょうからね。
なんか、被害者が憐れみを乞うているだけの記事のように読めて、獣害という問題の核心を正しく伝えていいないように感じてしまった。
私が被害者と名乗ってよいのであれば…
もしかしたら記事の文字数の都合上なのかもしれないし、記事のセンセーショナル感?雰囲気?重視でそのような書き方にしているのかもしれない。
それによって、獣害に興味を引くという戦略なのかもしれないが…私にとっては、もやもやする締めくくりでした。
単なる記事批判っぽく聞こえるかもしれませんが、決してそんなつもりはないです。
私もいちお被害者と言ってよいと思うのだけれど、生活かかってる人達が遭う「獣害」の重さは、私なんかの比じゃないだろうから。
私はYouTubeで農チューバ―の方の動画も良く見るのだが、獣害に遭い作物を失ったり、その対策として様々な手法を取り入れるなど労力を使っている動画も見ている。
その深刻な状況は、その触りだけでも経験している自分だからこそ、それなりに実感をもって理解できるつもりだ。
なので、故郷から逃げ出すしかない、そんなふうに追い込まれるような状況であることも想像に難くない。
人里のボーダーラインがどんどん都会へ?
私がこの記事を読んで懸念したのは、そうやって僻地の農家さん達が故郷を追われていくと、人里のラインがどんどん町の方へ、やがては都会の方へと上がって来ないか?ということ。
しばらくは、放棄された農地に残された作物が自然と生りつづけ、獣たちの栄養となるだろう。
でも、そこも人の手が入らなくなれば、やがては荒れ果てて、困った獣たちは更に人によって管理された町へと下って来ないだろうか?
だって、人間が米や野菜を作らなくなるなんて、絶対に無いよね?
どこかで、絶対に作り続けるよね?
人類は未だこういった自然の恵み(+文明によるサポート)を得て生きながらえるしか無いのだから。
それらを食べている都会人だって、獣害によって不作となったり、農家全員が廃業してしまったら困るはずなんだよ。
カケラも意識なんてしてないだろうけど。
ぼーっとしてても誰かがなんとかしてくれんだろ、って思ってるよね。ってか、食料の供給が行き届かないかも、なんて考えたこともないよね。
ただでさえ食料自給率が4割を切っている日本、獣のせいで食糧難!なんて可能性が、無きにしも非ずなんじゃないか、って、私には思えてきました。
気取って、
なんて言ってる場合じゃないんだよね、本当は。
そもそも必要な食糧が確保できるのか出来ないのかって次元の話でもあり、その為の根本的解決はなんなんだろ?と考えさせられました。
なんか、記事批判と都会人(=元自分)をディスる記事みたいになってしまったけど、自分なりに
知って、
考えて、
という過程における私なりの思考を書いてみた、って状態です。
更に色々と知って、考えていこうと思っています。
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